2009年6月29日月曜日

夢はいつもかへっていった

学校の庭の芝生に水引草(ねじり花)が咲いていました。
水引草といえば、25歳の若さで夭折した立原道造という詩人を思い出します。
死を間近かにした切ない感性で詠まれた多くの詩を詠んでいます。
その中でも

「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
 水引草に風が立ち
 草ひばりのうたひやまないやまない
 しづまりかへった午さがりの林道を
 ・・・・・                 」

立原の夢はいつもいつもかえっていく、山の麓のさびしい村に、、、
普通の人の夢はかなえられずいつもどこかにいってしまう。夢はそんな夢であっても良いのではないでしょうか?またその夢が返っていくのはそれはどこでもいいのです。現実の社会の厳しさを知った上で、その辛さを予想しながらもそれでも夢をもって生きてくことに意味があるのです。最後に草ひばりがさえずってくれれば十分なのではないでしょうか。




2009年6月26日金曜日

今年もツバメが増えましたが、、、

今年も学校にツバメがやってきて巣を作って、もうにぎやかに飛び回っております。昨年から感じていることですが、今年もツバメの巣が増えました。それだけ水田を中心に減農薬で餌となる虫が増えたのでしょう。自然は正直です。動植物の連鎖にすぐ現れます。今の環境問題、地球温暖化など、彼らから見れば自分たちのことしか考えない鈍感でおろかな人間たちより、より危機に敏感に深刻な変化を感じていることでしょう。


2009年6月23日火曜日

薔薇の花

北原白秋の詩に次のような子どもをテーマにした詩がある。

飛び越せ、飛び越せ、薔薇の花。
子どもよ、子どもよ、薔薇の花。

薔薇の花はきれいだけれど、棘がある。だから飛び越す場合によってはその棘に刺されるかもしれない。しかし、それを承知の上で白秋は、子どもたちに「飛び越せ、飛び越せ」と励ますのである。迷っている子どもがいたら、その背中をそっと本人にも気づかれずに押してやるのも教師や親の役目かもしれない。

2009年6月22日月曜日

教育の目的とは?

なぜ人は学ぶのか?学校教育の目的はどこにあるのか・・・と最近よく考えます。そのきっかけはある保護者の方からの相談でした。うちの子どもを有名大学に入れたいが、どうしたらいいかという質問でした。そこで私はなぜ有名大学に入れたいのかと聞いたところ、いい企業に就職できるからとのこと、そうですね、そのためには学力をつけていい大学に入れるようにしなければいけませんが、なぜいい企業に就職させたいのですかと聞くと、高い給料がもらえて、生活が安定するからだと、、、そしたら、なぜ高い給料がもらえて、生活が安定することを望むのですかと聞くと、それが子どもの幸せにつながるからだと答えられました。すべてを集約すると子どもが幸せになってほしいという願いだったのです。親なら当たり前のことですが、目的はいい大学に入ることではなくて、幸せに生きていくことだと、今頃気づいたのです。そうしたら、我々の教育の目的も子どもたちに幸せになっていく力をつけていくことが目的ではないかと・・・・そのために学力をつけ、人としての感性や社会性、倫理観、人間関係力、自分で自分の道を切り開いていく力など、すべてはそこに集約できるのではないかと!今頃こんなことに気づいているぐらいですから最低の校長だ、辞任せよなどというコメントが書かれるのかもしれません。まだまだ力量不足の校長です。鈴鹿中高の校長を私がしていていいのかと本当に思うときもあります。しかし、このブログにも共感していただいたり、お叱りを受けたり、いろんなコメントをいただいて、そのメールのすべてに私もできる限りの思いを返信したり、また返してもらったりしながら育てていただいております。先回はじめて返しようのない一方的なコメントをいただきましたが、どうぞこれからもご意見や感想は
<yama1260@gmail.com> までお願いします。

「この世を変えていけるのは政治家でもなく、社長でもない、教師です」という言葉を信じて!!

2009年6月18日木曜日

進学力で見た全国高校ランキング

先日、表題のような本のコピーが私の机の上においてありました。誰が持ってきてくれたのか、その中で三重県の進学校の格付けが出ていました。何を元にしてどういう格付けをしたのか、そもそも高校の格付けなぞおかしな話ですが、しかし実際自分ところの学校の名前を目にするとうれしいもので、これが人間の本性なのでしょう。なんでもそうですが、自分の子供でも普段は怒ってばかりいても、他人からほめられるとまんざらでもないもので、本質は同じです。そんなわけで今回は親ばかみたいな気持ち?になって、資料を載せました。




2009年6月14日日曜日

中2の広島の平和学習

6月10,11,12日と中学2年生が広島へ平和学習に行ってきました。昨年は団長で参加できたのですが、今年は他の公務との関係で行けませんでした。1学年で奈良に一緒に研修に行った学年で知っている生徒も多く本当は一緒に行きたかったのですが、行けなくて残念でした。そこでせめて見送りにと白子まで行って見送りのあいさつだけさせていただきました。その話の中で、最も子どもたちに伝えたかったことは、何でも現場に行って自分の感覚で歴史を知ることの大切さでした。本や写真、人の話ではなく、自分の目と耳、体で、現場に足を運ぶことの大切さを知ってほしかったのです。人文社会学系ではフィールドワークの大切さ、理工系では自分で実験して確かめることの大切さなのです。そこから自分にしかつかめない真実を見つけることができます。その真実こそが真理なのです。広島の被爆の悲惨な歴史は広島でしかわからない、昨年自分が行って思ったことです。
日本の平和の象徴:原爆ドーム

2009年6月10日水曜日

教育実習生の授業

6月に入って多くの本校の卒業生を教育実習生として受けいれています。それぞれを担当の先生方につけて指導してもらっています。6月1日が初日で、ぼつぼつ授業をする学生も出てきたので授業見学に今日もそれぞれの授業を見て回りました。教師って雰囲気が大切なのです。この雰囲気は学力だけできまりません。もちろん教科指導をするにあたって一定レベルの学力がなければ話になりませんが、いい教師になれる雰囲気は学力からだけでは生まれてきません。子どもが好きだという熱い思いだけでもだめで、その人の生き方が伝わってくるのでしょうか、授業でのゴマカシはききません。教師にとって授業は命だからです。 1時間でもいい加減な授業をしている教師は総体的に教師としてだめなのです。年間30時間ほどしかない1時間の大切さがわかっていないからです。
今日も実習生の授業をみていて、授業の展開はまだまだでも、将来はいい教師になるだろうなという雰囲気を持っている学生に出会いました。本当は母校に帰ってきて教壇にたってくれると一番良いのですが、しかし、最終的にはどこで教師をやってくれてもいいのです。子どもたちの未来のために、どこかで卒業生ががんばってくれればいいのです。
山の彼方の空遠く 幸い住むと人の言う・・・・・
学校のあじさい

2009年6月7日日曜日

地域の人たちと鈴鹿高校生との清掃活動

今日の日曜日は庄野地域の町内会の行事に鈴鹿高校生が合同し地域清掃ボランテァイ活動をしました。毎年行われているもので、高校生が地域の活動に参加するということで地元の人々にも大変歓迎されています。高校生も地域の方との触れ合う中で多くのことを学ぶいい機会だと思っています。今年も生徒会やボランテイア部・インターアクトクラブや運動部では剣道部も16名が参加し、有志の生徒を含めて40人を超える生徒が参加しました。
その中で庄野の宿場の町通を清掃する生徒に東海道53次の話をしたのですが、なかなか通じず、この道を参勤交代の大名行列が通って行ったと言うと「すごいんやな・・・俺たち、今そこにおるんや」と言って頭を下げてハハッーというポーズをとる様子、なんとも当たり前のように知っていると思ったことがそうでない現実、驚くやら不安になるやら・・・複雑な気持ちになりました。
 庄野公民館で地域の代表の人から作業の説明を受ける
 庄野の宿場の通りを清掃活動する生徒たち



 




2009年6月5日金曜日

研修旅行を終えて(6年制高2)

6月2日から今日まで6年制高2のみなさんと北海道の研修旅行に行っていました。私は時々授業にも参加しますが、このような行事にも年に何回かは可能な限り参加します。普段学校では見ることのできない生徒一人ひとりの姿・生徒の集団がどのレベルまで高まっているのかをこの目で見たいからです。教育は現場を離れては議論できません。普段の学校では見ることのできない部分も見て、感じ、今の、これからの「鈴鹿の教育」を考えていく参考にしたいからです。すべては「現実」からです。現実をいかに正確に把握し、分析し、課題を見つけ、今後の取り組み目標と方針をだして、そのためのシステムをどう構築していくか?今回の3泊4日もいろんな子どもと触れ合い、先生たちとも生活を共にすることで多くのことに気付きが生まれました。また、「子どもは集団の中で成長する」とは社会学や教育学の世界では当たり前の話ですが、まさにこの4日間で成長した子どもたちの姿を見せてもらったことが何よりうれしかったです。写真は行程中の北海道の雄大な自然のスナップを紹介します。ここに行くまでが大変なバスの旅で、今ふらふらになって帰ってきたところです。
 知床五湖に映る知床の山
 世界遺産になっている知床の自然
 釧路湿原

2009年6月1日月曜日

今日から6月=水無月

今日から6月です。6月のことを水無月(みなづき)ともいいます。
一応国語の教師で、古代文学を大学時代から専門にしてします。梅雨の季節で、雨が多いのにどうして水が無い月だと思われるかも知れませんので、一応文法的にその合理性を説明しておきます。水無月の「無」の「な」は連体助詞の「な」で「の」という意味があります。陰暦で6月は田に水を引く月ということで、水の月=水無月といわれるようになりました。
これから雨の季節ですね。嫌ですが、この雨が降らないとお米は取れません。お米が取れないと大変です。自然の摂理には逆らわないよう、不平や不満を思わないようあるがままの自然を受け入れて生きたいのもです。すべての周りにおきる自然の現象にはひとつひとつ意味があって、感謝・感謝ナノデス。